近松門左衛門

「曽根崎心中」に登場する誓安寺

大阪市天王寺区にある浄土宗 誓安寺(せいあんじ)です。
このページでは近松門左衛門の代表作「曽根崎心中」のあらすじや誓安寺が記された床本、劇中の「観音廻り」についてご紹介します。
(トップ画像:「牟芸古雅志」国立国会図書館蔵)

目次

「曽根崎心中」のあらすじ

遊女と手代の悲恋物語

大坂三十三観音廻りをしていた人気の遊女お初は、醤油店平野屋の手代で恋人の徳兵衛と偶然出会います。徳兵衛が最近逢いに来てくれないことを寂しがるお初。じつは徳兵衛には、深い事情がありました。

二人は夫婦になろうと考えていました。しかし徳兵衛の叔父でもある平野屋の主人は徳兵衛の人柄を見込み、自分の妻の親戚との縁談を勝手に進め、徳兵衛の継母に結納金を渡していたのです。

お初と夫婦になりたい徳兵衛は驚きました。縁談を断られた主人は怒り、結納金の返却と徳兵衛の解雇を命じます。

徳兵衛は強欲な継母が受け取った結納金を苦心の末取り返し、主人に返そうとします。そこへ徳兵衛の親友、九平治が現れ、泣きつかれた徳兵衛は主人に返すはずの結納金を貸しました。ところが、九平治はお金を徳兵衛からだまし取るつもりだったのです。

九平治は借りた金をだまし取り、あげくに嘘つきだと、徳兵衛を大勢の人の前で打ち据えました。友人たちにぬれぎぬを着せられ、主人のお金も返せなくなった徳兵衛。遊女として自由のない毎日を送るお初。八方ふさがりになった二人は死を選ぶのです。

「曽根崎心中」は1703年に実際に起きた心中事件をベースにしています。事件のわずか1ヶ月後に上演され、大当たりをとりました。

誓安寺の枝垂れ梅

大坂三十三観音廻り

観音廻り(かんのんめぐり)とは

「曽根崎心中」の冒頭、お初がまわっていた「観音廻り(かんのんめぐり)」は、江戸時代に大ブームとなった「大坂三十三観音廻り」のことです。

大決断だった西国三十三カ所巡礼

もともと三十三ヶ所廻りは、養老2年(718)に大和長谷寺の開山徳道上人が三十三の観音霊場、のちの「西国三十三所巡礼」を開かれたことが歴史の始まりです。「西国三十三カ所巡礼」は、いまの2府5県、総距離が1,000kmにもおよぶ大移動。徒歩移動がほとんどの当時の人々にとって、一生に一度行けるかどうかの大決断でした。

日帰りもできる大坂の三十三観音廻り

いっぽう「曽根崎心中」に出てくる「大坂三十三観音廻り」は当時の三十三ヶ所が、すべて今でいう大阪環状線の中。一日でも回れる距離だったこと、回ることで西国三十三所全てを回るのと同じご利益があるとされたことから、江戸時代を通じて大変人気のある寺社巡りだったのです。

再評価される近松のメッセージ

観客の毎日と同じように世間や周囲に翻弄され、無残な最後を選んでしまうお初や徳兵衛。救いのないように思える物語の最初にだれもが知る観音廻りを紹介することで、近松は観音さまの広大な慈悲の心やお初、徳兵衛のつらい気持ちを、よりいっそう真に迫って観客に感じさせたかったのかもしれません。

時は過ぎ、本来丸一日かけて一つの話を上演していた人形浄瑠璃は戦後、ダイジェスト形式で上演されるようになっていました。「観音廻り」も省略されていましたが、近年では原作の意図が再注目され、通しで上演される機会も増えています。

江戸時代に建てられた誓安寺の建物。お参りの皆さまを今もお迎えしています。

「曽根崎心中」に登場する誓安寺

約450年前の開山

誓安寺は近松門左衛門の時代よりさらに古く、約450年前の戦国時代に開山されました。
元禄元年の古地図など、お寺の歴史をこちらでご紹介しています。

床本に見る誓安寺

左ページ、2行目に「せいあんじ」の字が見えます
浄瑠璃本「曽根崎心中 付観音廻り」
(大阪府立中之島図書館蔵)

人形浄瑠璃「曽根崎心中」の床本(台本)に、誓安寺の文字が見えます。

いまもおられる十一面観音さま

誓安寺の名前は「曽根崎心中」の冒頭、「観音廻り(かんのんめぐり)」に登場します。

現在の大阪市北区にある一番札所太融寺から順に南へ下った、十五番札所が誓安寺です。
大阪上本町駅から徒歩約7分の場所にあります。

「曽根崎心中」のお初もお参りした十一面観音さまは、現在も同時代の観音堂に、西国三十三カ所の観音さまといらっしゃいます。全国からお参りされるかたがおみえになり、今も篤い信仰をあつめています。

「むかしより たつともしらぬいまぐまの ほとけのちかひあらた なりけり」

当時の装飾が伝わる誓安寺の境内

誓安寺には観音堂のほか、同時代の意匠が修復でよみがえった本堂もございます。
くわしくは境内案内をごらんください。

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